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2. ジャムの地に流れる時間

ラシャムジャ 著、星泉 訳

2-2. M村の一日

一日とは、時間の経過の中で一番の基礎となる時間の単位であり、日の出から日没までの時間ということである。その時間帯をどう過ごすかは、最終的に一年をどのように過ごすかに直結しており、また一人の人間の一生という時間をどのように過ごすかにもかかわっている。ゆえに、M村に流れる時間を研究するに際しては、まず一日の過ごし方から始めるのが肝要である。

夜明け前の明けの明星が徐々におぼろになるとともに、東の空の端から朝焼けの雲が赤々とした光を放てば、一日の始まりを告げる文頭記号が記されたというわけである。それから朝〔起きてから朝食まで〕、午前〔午前10時から正午まで〕、昼〔正午から午後2時頃まで〕、午後〔午後2時頃から5–6時まで〕、夕暮れ〔午後6–7時頃〕、夜と進んでいく。またたく星のもとで静寂に包まれ、犬の吠える声も聞こえなくなる時間になると、山村全体が朦朧とした夢の世界へと入っていく。ここに至るとM村の一日の記述が終わり、章末(に達したことを示す)句読線が引かれるのだ。歳月を一枚一枚の紙だとすれば、時間はその紙に書かれた文字と同じで、一日はその紙の上に書かれた文章のようなものと言えるだろう。紙の上に文章が書き綴られて(一日となり)、それが分厚い本となってゆく。その分厚い本は誰かの人生の時間に相当し、民族や国家ともなれば、一つの時代に相当する。時間の綴られた分厚い本には、誰かの人生が物語のように描かれ、どこかの歴史の盛衰が歴史のように描かれているのだ。

こうしてみると、M村の一日を描くことはなんと楽しいものだろうか。ある一家の主と主婦、成長した子、まだ成長過程の子、さらに祖父母などの家族一人一人が一日をどのように過ごしているのかについてつぶさに書き出してみると、穏やかに過ぎていく時間の流れが集落から徐々に立ちのぼってくるのを感じることができるだろう。太陽が東から昇り、徐々に高くなる。それからしばらくするとゆっくり時間をかけて西の方に逸れていき、果ては水天の懐に落ちていき、その山の端にしばしとどまって振り返り、黄金色の柔らかな陽光が山村を取り巻く山の連なりや家々を黄金色に染め上げ、あたかも溶かしバターを注ぎ込んだかのようになる。それからしばらくすると、ようやく集落が黒い影に覆われ、もはや人々の目には遠くが見えなくなる。M村の人々で腕時計をもっている者はほとんどおらず、掛け時計がかかっている家も極めて少ないので、頭上の太陽をもとに一日の時間を推測しているのだ。太陽の進むスピードは非常にゆったりとしており、のんびりとしたものであるので、M村の人々も時間について細かく意識はしていないし、関心もない。このことについては、イタリアのトゥッチが1948年にチベットを旅行した際の記録 To Lhasa and Beyond––Diary of Expedition to Tibet in 1948 に以下のように書かれているのと状況は似ている。「僧院には時計はない。時間は静かに進んでいく。私たちのように時計で時間の進み具合を知ることがなく、時間は無為に過ぎていき、何も起こらない。誰も時間のことを気にしておらず、われわれのように時間を重視するということはない……」(原注:トゥッチ(G. Tucci)の著書 To Lhasa and Beyond––Diary of Expedition to Tibet in 1948(漢語版)中国蔵学出版社、2017年、47頁。)〔原書156頁〕

というわけで、M村の一日について解きほぐしてみよう。

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