本書のモデルとなった村をM村と呼ぶことにしよう。その村は東経106.61度、北緯35.86度付近に位置する。本書の時代設定は1980年代前半である。
晩秋の山や谷、平原は、草が徐々に黄色く色づき、黄色から枯れ草色へと変わってゆく。その頃にはポプラの葉も溶かしバターを塗ったかのように黄色くなり、ほどなくして柔らかさを失った葉は枯れてゆく。その頃には谷に吹きこんでくる風も、涼風から寒風へ、そして穏やかな風から吹きすさぶ強風へと変わってゆく。樹木の枝で黄色く色づいた葉は、晩秋から初冬へと誘う風に何度もさわさわと揺らされ、数日後には地面にはらはらと落ちてゆく。その頃、チベット高原の東の果ての片隅にある農牧複合の小さな山村、M村に、猛々しい虎のような冬が、山の向こうのさほど遠くないところから近づいてくる足音が聞えてきた。そんな季節のある朝、人々はさほど遠くない山の頂に一面に白い霜が降りているのに気づく。そしてまた、近くの日陰に湧き出している泉に薄氷が張っているのにも気づく。時は旧暦十月上旬、M村の人々は山にいる羊の群れを夕刻に羊小屋に追い立てていく際に、肉付きのよい何頭かの去勢羊の脚を縛り、冬用の保存肉のために屠畜・解体する日が近づいている。
冬用の保存肉のために屠畜・解体をするこの山村は、何と不思議な土地だろうか。M村やM村のような土地のことを「ジャムの地」と言い、土地の住人たちは「ジャムの人」と自称している。この呼称は、標高の低い谷の狭いところに形成された農耕地区および(その地に暮らす)農耕民と区別し、標高の高い広い土地に形成された牧畜地区と(その地に暮らす)牧畜民とも違うことを示すための呼称である。「間の土地」と呼ぶ者もおり、こちらは農耕と牧畜の境界地帯に暮らしていることを理由とする呼称といえよう。「農でも牧でもない土地」と呼ぶ者もいるが、これは農耕民のように作物を植え、牧畜民のように牛や羊を放牧するという両方に従事することを理由とする呼称である。いずれにせよ地勢的には、M村の位置する土地は農耕地ほど狭くはなく牧畜地ほど高地でなく、なだらかで起伏の少ないところなので、大自然からの賜物のような穏やかな土地といってよい。何よりこの穏やかな村は、チベット高原で人々が幾千年も続けてきた二つの生業である牧畜と農耕の特徴が一所で行われる土地であり、チベットの牧畜文化と農耕文化の両方が同時に継承されてきた土地なのだ。こうした山村の生活文化とは、チベットの生活基盤たる農耕・牧畜という営みの中で育まれた知恵なのである。われわれはこれらを当面、ジャムの生活文化、ジャムの知恵と呼ぶことにしたい。
屠畜・解体の日は何と喜びに満ちた日であろうか。この日にちなみ、われわれはジャムの生活文化とジャムの知恵について語るのに、羊の去勢雄を冬用の保存肉として屠るところから説き起こしていきたい。一頭の羊の生死にまつわる長い長い話になる。これから羊を屠るというとき、一家の主は六字真言を唱えながら、羊の背中の毛を一束引きちぎり、それを取っておく。これを「ヤンを取る」という。ヤンとはチベット人特有の文化的な心構えとそれを具現化したものである。これはあらゆる生物・無生物の本質を捉えようとする認識である。チベット人はあらゆる生物・無生物の本質に備わっている、目には見えない福徳のようなものの存在を信じており、そうした福徳は、それが備わったものの能力、言い換えれば内的本質または精髄であり、そのものが存在し、増えてゆく原動力のようなものだと考えている。だから、もの、あるいは宿り主が壊れても、ヤンが衰弱しなければ、すべてが元通りに回復しうると考える。屠畜・解体すれば、血肉の集まってできた羊という肉体は失われてしまうが、縁起担ぎで毛に宿るヤンを取っておく。一家の主はヤンを取ることで心を落ち着かせ、屠った羊が再び一家にさらに多くの羊をもたらしてくれると確信できるのだ。さて、羊は屠られた。屠った羊は枝肉にして建物の軒下の梁に吊るし、風にさらして陰干しにする。
その羊は実に福運 に満ちた羊だ。その羊にはジャムの生活文化のすべてが凝縮されており、生活文化から生まれた知恵、すなわちあらゆるものは関係性のもとに成り立っているという生活知と、その生活知を実践する労働観に至るまでのすべてが詰まっている。この羊を例に取り、さらにまたジャムの文化の本質を捉えていくこととしよう。そうすればM村の人々が先祖代々積み重ねてきた生活の知恵の本質が手に取るように理解できるだろう。
その羊は、子羊の頃からずっと、昼間は山で美味しくて栄養たっぷりな草を食み、夕方には里の小屋に戻り、昼に食べた草がお腹の中で消化されてできた糞を小屋で排泄するという生活を続けてきた。糞は乾燥させてかまどで火を焚くときの燃料にする。その燃えかすの灰は、馬や牛たちの小屋や人間の厠などに撒く。小屋に撒いた灰は、羊に尿をさせてしばらく置いておけば下肥になる。下肥は、冬や春に畑に運んで撒いておけば質のよい肥料になるのだ。それだけでなく、その羊は毎年、真っ白な羊毛も提供してくれた。主は毎年毛刈りをして糸を撚り、その糸で織物を織って袋をつくったり、紐や縄をなったりしたものだ。袋の中に秋に収穫した穀物を入れ、紐で括りつけて背負えば、ジャムの人々の額には汗が玉のように噴き出すが、顔は花が咲いたように笑顔になる。その羊は、生きていたときも、こうして一家の暮らしの様々な場面に姿を現し、何年もの間、一家の生活に大きく貢献してくれた。だからこそ、その羊は福運の羊 なのである。その羊は一家にヤンを何度も何度ももたらしてくれた後、最後に自らの血肉を集めた肉体を差し出してくれたのだ。
ジャムの人である一家の主は、しばらく目を閉じ、六字真言を唱えている。それは罪滅ぼしの行為であり、これほど一家に貢献してくれた羊の命を奪うという罪業に許しを請う祈りである。そうした心持ちは生活のために奮闘する人間であれば必ず抱くものであって、罪を重ねる勇気をもつことも生活のためであり、罪を償う感情もとどのつまりは生活のためなのである。こうして去勢雄はその日、ジャムの人に(口を縛られ)窒息させられ、血と肉を取られた。その羊はこうして主の羊の群れからはいなくなったけれども、自らのヤンは一家に引き渡したのである。そのヤンを守る方法は、羊のすべてを余すことなく適切に使い切ることである。ここからは屠った去勢雄を、一家の主がどのように使い切るのかについて、ざっと述べていこう。まず、枝肉を解体し、肋骨も一つずつに切り分け、家の日陰側の冷暗所にある肉の貯蔵用の小部屋に貯蔵する。当時のM村には今のような冷蔵庫はないので、人々は気温を巧みに活用する術を心得ていた。気温が急激に低下する頃合いと、羊の体力が落ちる直前の頃合いを見極め、羊の屠畜もこの時期にぴたりと照準を合わせるのだ。貯蔵室の肉は、翌年の春が始まるまで食べ続けることができる。羊の内臓はきれいに洗い、胸腔に溜まった血を取り出し、その中に心臓と肝臓、腎臓、脾臓などを刻み入れ、ネギなどを加え、小腸・大腸や直腸、盲腸などに詰めて腸詰にする。他にも第一胃をきれいに洗い、バターを詰めるのに使ってもよい。羊の脚と羊の頭は火であぶって毛を焼き払い、寒いときにゆでて食べる。屠畜の際、羊の皮は四肢の方から引き剥がしていき、引き伸ばして乾かしておき、後に皮衣などをつくる生地とする。羊の角も捨てたりはせず、家の柱に取りつけて、物を掛けるフックとして使う。一年のうちに羊の肉は徐々に食べ尽くされるが、その際に残った骨は取っておき、一年近く経った頃に粗く砕いて鍋で長時間かけて煮る。煮汁の上に脂肪が浮いてくるので、それが固まったら取り出して保存する。できた脂肪はバターの代わりにツァンパと合わせてシャクツァムにしたり、肉饅頭をつくるときに餡に混ぜることもある。余った骨は春先に果樹園に持っていき、リンゴの木の根元に埋めるのだが、これまた養分たっぷりの肥料となる。こうして屠って一年が経った今、あのときの羊は、地水火風の源に溶け込んでいる。こうして一頭の羊が溶け込んでゆく流れの中には、あらゆる因果が相互に依存して生まれた天成の知恵が満ちている。その知恵とは、大自然から贈物として授けられたものを一切無駄にせず、生物の世界とバランスを取り、永続的に発展させていくという論理である。この論理に基づけば、その羊が手放した福運 もまた、しかと持続していくことができるのだ。一頭の羊を屠ることから見える生活の知恵は、M村の人々が長い間大自然の胸に抱かれ、命を衰えさせることなく繋ぎ続けてきた経験である。こうした知恵は、M村の生活のあらゆる面に見ることができ、われわれが気に留めさえすれば、至るところで、きらきらと光を放つ金塊のようにその姿を現している。
M村の生活の知恵は、チベットの牧畜文化と農耕文化の両者を集めた精髄である。すでに述べた通り、われわれはこうした文化のことをジャムの文化と呼ぶ。ジャムの文化は生活知である。その知恵は、これまでチベットの宗教的な知識と同様に知識人が意図的に文字に書き留め、学ばれ、継承され、保管されてきたものではないが、一般の人々の手で衰えることなく世代から世代へと受け継がれてきたものである。われわれはこれまで、ごく普通の人々の生活の経験と賢明さを無視してきたとも言えるし、一切敬意を払ってこなかったとも言える。しかしまさにこの生活知こそ、チベットという高原の民族が厳しい自然環境ゆえに度重なる困難を味わわされながらも生き抜いてこられた重要な要因なのである。われわれは爪に血膿を滲ませて懸命に働いてきた村人たちのおかげでここまで生きながらえてきたのであり、そうした労働における困難や、それを乗り越える賢さこそが、われわれを生き延びさせてくれたのだ。これは人間界で最も当然とも言える道理だ。あらゆる文明は、最も普通の生活文化という畑地から生じ、花開くのである。何千年もの長い歴史が川のごとく流れ、多くのものを遥か遠くまで押し流していったが、生活知は今もまだ途絶えることなくわれわれの土地の人々の血脈を流れ続けている。そしてそのどくどくと流れる音は、生命の流れる音なのである。
現在、われわれは岐路に立っていると言ってよいだろう。われわれは今こそ一旦留まって頬杖をつき、次の点についてじっくり考えるべきだ。チベット文化の伝統的な二大潮流、すなわち知識人たちの担ってきた文化と、民間の一般人たちの担ってきた文化の間にはどのような矛盾があるのか。われわれはそこに関心を持ち、真剣に考えなくてはならない。これまでわれわれはチベットの民族が、知識人たちの構築してきた文化の威光にもとづいて生きてきたのだと主張して、そのことばかりを幾度となく世間に知らしめ、自認してきた。しかしながらわれわれは、民間の一般人が構築した生活文化の知識に対してはほとんど無視を決め込んできた。もし幾歳月もの間、民間の一般人の知識を知識人の知識と同様に重視してきていれば、われわれ高原の民族は、この世界の屋根においてこれほど度々競り負けることはなかったかもしれない。とにかく熾烈な生存競争の時代に生きるわれわれにとって、生活の中で育まれてきた知恵に関心を向ける覚悟が必要だ。そうしないならば早晩失速は免れないだろう。われわれはこれまで蒼天を仰ぎ見て、そこにすまう神々の境地を理想として生きてきた。だが今、頭を垂れ、足元の大地をよくよく見つめる時期が来ているのだ。大地は慈愛に富み、気前よく施してくれる存在であり、そこに位置する山村の人々もまた生きることに長けた者ばかりである。われわれは今、そうしたものに心を寄せ、信頼し、誇るべきなのだ。私は遥かなるM村を人間界の知識の詰まった場所と見なし、そうした知識に見られるすぐれた知恵を文章に書き留めたい。このことが、時代の変わりゆく中でもチベット人の社会が崩れ去ることなく、末長く発展していく源となるだろうと信じている。