SERNYA
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2. ジャムの地に流れる時間

ラシャムジャ 著、星泉 訳
2-2-4-3. なぞなぞを楽しむ夜の子供たち

こうして日が暮れると、子供たちはようやく遊びや両親の手伝いに疲れ、温かい高床か、かまどのまわりに腰を下ろして夕食を待つ。家族と食事を済ませると、子供が小さくて、まだ言葉がよく理解できないような場合は、母親が子供を優しく胸に抱いてこんな子守歌をやさしく歌ってやる。

よしよし泣かずにねんねして

ねんねしたらお馬をあげる

可愛い鞍もつけてあげる

お空の星をとってあげる

お花をたくさんつんであげる

子山羊をほふってあげる

脂にくるまった腎臓をあげる……

こうしてやさしい声で歌う。その子もこうして歌で眠りに誘われ、夜の薄暗い灯のもとですやすやと寝息を立て、夢の世界に入っていく。少し大きい子供ならば、眠りにつく前に大人たちと一緒になぞなぞを楽しむ。なぞなぞは子供たちにとっては一日の最後を締めくくる遊びなのだ

なぞなぞとは、「なーんだ」となぞかけをして、「それだ」と、なぞの答えを言うものだ。もし答えがわからなかったら、「答えの代わりに借りを返せと言われるので、「村の中の家を一軒担保にあげる」というと、答えを教えてくれるのだ。例えばこんな風だ。「黒馬に乗った盗賊が略奪に行った。赤い馬の群れが追いかけてきた。なーんだ。答えられなければ(答えの代わりに)借りを返せ」となぞかけをされたら、「火かき棒をかまどの穴につっこんで火をかいているところ」と答える。もし答えがわからなければ、「答えを教えてくれたらxxおじさんちを借金のかたにする」などと、隣近所の家の名前を言わなければならない。これを言うと、「相手は「火かき棒をかまどの穴につっこんで火をかいているところでした」と答えを教えてくれる。こうしたなぞなぞはとてもたくさんの種類がある。例えば、「赤いおうちの中に白い仔羊なーんだ」というと、答えは「歯」である。このように身体の部分を問うなぞなぞもあれば、「歩けない背中の曲がった母羊ってなーんだ」というのは、「籠」が答えである。このように日用品、道具を問うなぞなぞもあれば、手仕事、生活用品などを問うなぞなぞもある。なぞなぞ遊びには大人たちが交じってくることもある。なぞなぞ遊びを通じて、目に見える現実世界をよく知ることができるし、さらには目には見えない事の本質を認識できるようになる。こうして一日が漆黒の夜にゆっくりと呑み込まれていき、なぞなぞに答える子供たちも徐々に眠りの世界に入っていく。

ともかくこうしてM村の一日が終わる。

一日というのは、一月や一年、一生と比べれば、何ととるにたらないものだろうか。しかし、実はこの一日という時の単位は他のどんな時の単位よりも語る価値があるのだ。一日の生活は、一月、一年、一生の生活の細分化された一部なのだから。チベットの知識人と呼ばれる人たちの大部分は、もっぱら総合を好み、俯瞰的に語ることを好む。これが悪いというわけではないが、あらゆることは小さい部分から成り立っているので、ここで述べてきたように、ときには暮らしの中の一日に焦点をあてることでも、M村の暮らし方や知恵、知識などを理解することができるし、「これはこういうわけですよと」と集落の人々の行動や意識のあり方の概略を引き出すことができるだろう。M村の一日を、火を起こす主婦や焚き上げ供養をする主、物語を語る祖父母、なぞなぞに答える子どもたちといった家族の構成員が、朝、午前中、昼、午後、晩といった時間をどのように過ごしているのか、詳細に順序立てて書いてみたわけだが、M村のジャムの暮らしの精髄にも、少しは触れることができたのではなかろうか。

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