M村では年老いた男性をアムニ、年老いた女性をアイと言う。パポ、ガガとも言う。アムニとアイは高齢で、家族全員で敬意をもって接し、よくお世話しなければならない存在である。毎朝、主婦の次に早く起床するのはたいていはアムニとアイである。朝起きたら、アムニとアイは用を足し、手洗いと洗顔 をしたら、仏間に行って、仏壇に安置されている仏さまの供養をする。
仏間がどこに配置されているか、あるいは仏像やその配置などについては一章で詳しく紹介した通りだが、どのように供養したり祈りを捧げたりするかについてはここで少しばかり紹介しよう。まず夜通し灯されていた灯明は燃え尽きているので、それを片づけ、昼用の灯明台に灯を灯し、仏像の前に供える。それから七連の器にきれいな水を注ぎ、功徳水を捧げる。そして香りのよい線香を線香立てに差し、身口意すべてで五体投地をする。五体投地の回数は最低でも三度行うものだが、アムニとアイがやりたいだけ、五体投地を捧げればよい。いずれにしても五体投地の回数は奇数にすることが肝要である。ときどき数百回あるいは千回もの五体投地を捧げるアムニやアイもいるが、五体投地の数というのは、歳月を積み重ねていけばよいのであって、一年のうちに何万回もの五体投地をする人もいる。いずれにせよ宗教的な観点からは礼拝については多くの説明がある。それも、身口意で五体投地をすることに関してのものなのだが、身によって礼拝する対象に対して敬意を示し、口によって礼拝する対象の功徳を述べて賞賛し帰依し、意によって礼拝する対象に対して一心に信仰するのである。身による礼拝の仕方には、胸元で合掌する礼拝と、五体をすべて地につける礼拝、そして全身を地に投げ出す礼拝の三種類がある。アムニとアイがこの三種のうちどれで礼拝をするかは、各自の健康状態に合わせて選べばよい。このうち三つ目の、全身を地に投げ出す礼拝のことはキャンシャクという。これは他の二つの礼拝の基礎の上に成り立つ礼拝の仕方で、やり方は、まず体をまっすぐにして立ち、合掌した手を頭頂までもっていく。それから口元へもっていき、さらに胸元にもってきたら、体を屈めて地面にひれ伏し、手足を伸ばしてうつ伏せになる。合掌した手は頭頂まで伸ばして礼拝をする。こうして身の礼拝をしながら、口では六字真言を唱えるとともに、母なるあらゆる衆生が平安で苦しみから逃れられるよう祈るのだ。心では、今生でも来世でも、自分も他者もみな障りなく安寧であるよう祈りを捧げ、とりわけ来世で悟りの道の端緒につくことができるよう、祈るのだ。この世帯の老夫婦がこうして朝、仏間で五体投地を捧げて祈るのは、屋上や中庭の焚き上げ台で焚き上げをして祈りを捧げる一家の主とは少しへだたりがある。M村の人々の言い伝えでは、こうしたお年寄りのことを山の端の太陽と山裾の影のようだという。つまり今生の生活よりも、来世へ向かう道のりの方が重要なので、老夫婦が仏間で灯明をともし、功徳水を捧げ、線香をくゆらせ、五体投地をするのは、来世のために善行を積むことが目的なのだ。これはごく普通の宗教的な行為なのであって、今生の一生を懸命に生きてきた二人のお年寄りが、せわしく何かを追い求めるような生き方をやめて、ゆったりとマニを唱え、五体投地をして、祈りながら朝の文頭記号を書き記しているのだ。
朝食を食べるとき、お茶のお初を神仏に捧げたあと、最初の一杯はアムニとアイに捧げなくてはならない。外の仕事がどれほど忙しくても、主婦はお年寄り二人に朝食を必ず完璧に用意しなくてはならない〔訳注:tshags とは準備が完了するという意味がある。sgrubには準備の含意がない。M村の方言〕。それは主婦が義父母を大切にしているかどうかのものさしになるのであって、主婦が義父母を大切にする心根のよい女性であれば、毎朝義父母に油ののった熱々のパンをつくって提供するだろう。義父母もまたこのような主婦に対しては、うちの嫁はいい嫁だとか、ユクがあると村人たちに自慢をするだろう。朝食を食べ終わると、老夫婦は村のドンルチャガにある行者堂に参拝に行き、コルラをすることもある。そこにある大きなマニ車を回して、村の他のお年寄りたちとゆっくりと過ごす。また、時には自宅の中庭の日当たりのいいところで日向ぼっこをして、お茶を飲みながら小さな孫たちに昔話を語って過ごしたりもする。