もう一つの大きなM村の公共事業として、道の補修がある。第1部でM村の道について紹介した通り、村には大小さまざまな道があり、畑の区画の間の道、村の上手と下手を結ぶ大通りがある。こうした道は村人たちが自然環境と社会環境にアクセスするための通り道であり、アクセスの良し悪しは、様々な関係や仕事がうまくいくかどうかと関係してくるので、道の補修は公共事業の中でも非常に重要なものと位置づけられる。道の補修は年に数回行われる。大通りの補修の他、畑の区画に引かれた道の補修を春の初めと秋の初めの2回に分けて行う。これらの時期に補修を行う理由は、季節ごとに異なる。春の初めには各世帯から畑地に下肥を運搬し、秋は畑から各世帯の脱穀状に刈り取った麦を運搬するのに使うのである。水路役と同様に、補修役についても各家庭から最低1名を出さなければならない。
上述の通り、これらの大規模な公共事業は各世帯は最低1名の働き手を出さなくてはならない種類の仕事である。もう少し規模の小さい、その他の公共の仕事もある。例えば村の法要のために白傘蓋陀羅尼などを唱える(人たちを束ねる仕事の)責任者や、畑地の作物を守るための畑地規則を作り、それを実践するための畑地規則担当者、草地の規律を守らせる(草地)規則を作り、それを実践するための草地規則担当者、また村で競馬会や娯楽会を実施するときの規律担当者などである。一般に公共事業とは、村における公共の利益と結びついた仕事であるので、M村の人々にとっては、必ず参加しなければならない仕事だが、参加して身を粉にして働くかどうかは、公共心があるかどうかにかかっている。公共心を持つべきだということは、M村の人々が信仰している宗教である仏教の重要な教えでも説かれている。自分一人のことを考えるのではなく、他者のために責任ある行動を取ることは、(仏教で説かれる)菩提心そのものである。村人たちが十方諸仏の菩提心への供養を実践する姿は、村人たちの公共事業にも現れているのではないだろうか。村の公共の仕事(に対する人々の意識)をこのような高次のレベルから解釈できるかどうかはさておき、最も合点が行き、簡単に理解できる方法は、このような公共の仕事を村の中の各世帯と村人の暮らしの良し悪しと直結しているとすることである。現代の社会学的な観点から公共事業を見ると、公共の仕事を組織しなければならないことと、それを人々が支持しなければならない理由は明らかなので、ここではあまり深入りしないことにする。