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ティメー・クンデンを探して

映画の映画であるとともに、愛のさまざまな形が描きだされる

ストーリー一台の車がチベット高原をひた走っていく。車に乗っているのは映画監督、カメラマン、ドライバー、そして皆から社長と呼ばれる男。一行は、チベット歌劇『ティメー・クンデン王子の物語』をモチーフにした次回作の役者探しの旅の途上にあった。社長の案内のもと、村々や寺を回る一行の目の前で、歌劇『ティメー・クンデン』の名場面の数々が、それに関わる人々のエピソードが披露されていく。長いドライブのさなか、旅のつれづれにと社長が自らの初恋物語を語り始める。それにじっと聞き入る一人の娘がいた。長年ともに『ティメー・クンデン』の舞台の主役を務めてきたにもかかわらず、去っていった恋人に会うために監督一行の車に乗り込んできたのだ。はたして彼女の恋の行方は? また監督は自らが思い描く主役にめぐりあうことができるのか?

饒舌な愛と寡黙な愛、そして無私の愛

文・三浦順子

ペマ・ツェテン監督が長編第二作目の題材に取り上げたのはずばり「映画制作」、全編が『ティメー・クンデン王子の物語』をモチーフとする映画に出演する役者を探して村々を巡る映画監督一行のロードムービーとなっている。ちなみに『ティメー・クンデン王子の物語』とは前作『静かなるマニ石』にもたびたび出てきたアムドで特に人気ある古典歌劇である。

監督自身も語っているようにこの映画のテーマのひとつが「愛」である。映画好きが高じて撮影隊のガイド役まで買ってでた社長は、いかにもやり手そうな恰幅のいいビジネスマンだが、そんな外見とは裏腹に驚くほどロマンチスト、口から洩れ出す初恋物語は初々しくも瑞々しい。撮影隊の一行は、社長の饒舌なまでの自分語りをひやかし半分耳を傾けているが、別れた恋人に会うために同乗してきた娘(ティメー・クンデン王子の妃役を長年演じてきた美女)は、窓の外の光景を見つめるばかり。紅色のスカーフで顔をきっちりと覆った彼女が、自らの恋愛について詳細に語る場面は無きにひとしい。そんな「寡黙な愛」の彼女が他人の饒舌な愛の語りにじっと耳を傾けるうちに、ひとつの決断に至る。この映画のすばらしいところは、そうした心の細かなうつろいを、台詞なしで、完全に映像だけで描き出しているところだ。

また全編をとおして特徴的なのが、どのシーンもズームで切り取られることがほとんどなく、人物の表情がクローズアップされるシーンが皆無に近いこと。スカーフの娘が恋人との再会を果たすシーンは、物語のひとつのクライマックスのはずだが、監督はあえて引きの絵で撮り、さらには民衆の踊りコルドも騒がしく始まり、声すらもかき消されているという普通の映画の常識からいうとまったく逆の手法がとられている。

地上の愛よりはるかに崇高な、宗教的な慈愛の精神も描かれる。映画のなかで監督の求めに応じてさまざまな役者が『ティメー・クンデン』のハイライトシーンを演じる。子供三人を布施するシーン、盲目のバラモンに求めに応じて両の眼をえぐりだして究極の布施を実践するシーン。このような利他の心や布施の精神はチベット人が長年、『ティメー・クンデン』などの宗教劇を見、自ら演じることで培い、自らの文化的アイデンティティーの一部となってきたものである。とはいえ時代の趨勢には抗しがたく、大学を出て町で教師になった娘の恋人は、正月に戻ってわざわざ村芝居でティメー・クンデン王子を演じる気持をすでに失い、町の劇団が撮影隊の前で披露してみせるチベット茶の攪拌器の踊りは、中国の正月番組の〝民族舞踊〟っぽく、伝統文化も風前の灯であることをうかがわせる。ナンマ(チベット歌酒場)のシーンでは切々と、抒情的に歌い上げられるはずの「アク・ペマ」が耳をつんざく爆音ロックバージョンになっており、『静かなるマニ石』でも道端で少年僧が口ずさむ「アク・ペマ」のバージョンとは対照的である。

失われつつある伝統文化への愛と、現代の趨勢についていかなければいけないという焦り、現代のチベット人は常にこの二つのあいだでゆれ動いている。映画の終り、映画監督がつぶやく言葉にその惑いが凝縮されているように思える。

こぼれ話

前作「静かなるマニ石」のロケ地の選定に同行した実業家のツォンディが旅の車中で語った実話をもとにして作られた作品。本作の小説版はペマ・ツェテン短編集『ティメー・クンデンを探して』(勉誠出版)に収録されている。車内で流れ続けているのは亡命歌手テチュンの曲。

写真提供・ペマ・ツェテン監督

映画祭出品・受賞歴

本記事は、2013年12月1日刊行のSERNYA vol.1に掲載された記事を転載したものです。

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