さまざまな事情を抱えて田舎から上京してきた4人の若い女性たちが、チベットの古都ラサのナイトクラブ〈ばら〉で働きながら小さなアパートで身を寄せ合って生きている。彼女たちのしたたかな生き方と、やがて訪れる悲痛な運命を慈愛に満ちた筆致で描いた長編小説の邦訳。農村の貧困や性暴力の問題、男女格差、機能不全家族など、現代社会の抱える問題を織り込みつつ、女性たちの姿を生き生きとした言葉で描き出した作品。英国PEN翻訳省受賞作。著者ツェリン・ヤンキー(1963–)はチベットを代表する女性作家の一人である。彼女が手がけた初の長編小説である本作品は、チベット自治区出身の女性がチベット語で発表した初めてのチベット語長編小説となった。春秋社が立ち上げた新シリーズ「アジア文芸ライブラリー」の刊行第一作。
1963年、中国チベット自治区シガツェ生まれ。渡し舟の船頭を営む両親の間に生まれ、語りのうまい祖母に育てられる。14歳で初めて小学校に入学するまでは祖母の手伝いをしながら、民話や民謡、格言、ことわざを仕込まれる。1983年にラサのチベット大学に在学中に『チベット日報』に投稿した小説が掲載されデビューを飾る。大学卒業後は中学教師となり、学生たちとの交流から創作のヒントを得て小説を発表し、ダンチャル文学賞、全国少数民族文学創作駿馬賞を受賞。しばらくのブランクを経て7年がかりで完成させた初めての長編小説『花と夢』は、チベット自治区出身の女性がチベット語で書いた初めての長編小説となった。現在は教師を退職して老親の介護をしながらラサで暮らしている。
敬愛する日本の読者のみなさまへ
『花と夢』の著者のツェリン・ヤンキーです。何千キロも離れた世界の屋根から、日本のみなさまに心をこめてごあいさつ申し上げます。
『花と夢』のチベット語原書が出版されて、8年が過ぎました。この間、8回も版を重ね、発行部数は数万部に及びます。おかしな話ですが海賊版まで出るという、チベット語作品としては滅多にない状況にもなりました。ラサことばとアムドことばによる朗読も5種類ほど出たことで、チベットの読者にはさらに大きなインパクトがありました。とりわけコロナ禍でロックダウンの行われた2022年には『花と夢』の読者が急激に増え、朗読に耳を傾ける人も増えました。その結果、チベット語を読めない人たちも『花と夢』の物語を全て聴くことができたのです。やる気のある人たちが自主的に電子ブックを制作し、読者に広く頒布したことで、さらに広く読者に行き渡りました。コロナ禍で出版社がタイミングよく重版できなかったことは一部地域で海賊版が出回る原因になりました。
当時、多くの読者がSNSで私に連絡をしてきて、本を手に入れることができていかに感激したか、ページを繰る手が止められず泣きながら一気に読みましたなどと言ってくれたものです。また朗読を聴いた人たちからも、4人の女性たちの運命に心の湖面を波立たせながら昼も夜もずっと耳を傾けていましたといったメッセージが届きました。物語を読んだ人たち、聴いた人たちが、4人の主人公の運命を心配したり愛情を抱いたりしただけでなく、法律への意識を深めたり法律の知識に関心を持つようになり、また自らの権利を守ることへの意識、とりわけ女性が自らを大切にすることの重要性について語り合うようにまでなったの です。
この小説が読者からこれほど高い評価を得て、大きなインパクトを残すことができたのは、想定外の出来事でした。私の小説『花と夢』が、読者にとって、やり過ごすのも難しい歳月を何とか乗り越える友となったこと、そして苦しい時に喜びと悲しみを分ち合う同胞の役に立てたことは私の喜びでした。チベットの若い女性読者にとって自分の人生を見直すきっかけになったのは、とりわけ嬉しいことでした。 この小説は2022年に英語に翻訳され、西洋の読者のもとに届けることができました。そして今年、チメイ(星泉)さんのご尽力で日本語に翻訳され、春秋社から出版され、日本の読者のもとにも届けることができたのは思いも寄らないことでした。
日本と雪の国チベットは何千キロの距離に隔てられており、はるか東方に暮らす日本の人びとと、世界の屋根に暮らすチベットの人びとの風俗習慣や世界観は大きく異なるでしょう。でも、日本の映画を観たり、小説を読んだりすると、愛情表現や慎み深さなどはよく似ていると思いますし、とりわけ人に対する敬意の表し方や正義感の強さなどは共通点を感じるところです。私の作品を通じて、チベットという高地に生きる人びとの習慣や世界観、人の性質などが日本の読者のみなさまの心を揺さぶり、知るということを通じて、読者のみなさまがチベットに対してより鮮明な印象を抱いてくださることを期待しています。
『花と夢』を日本語に翻訳してくれたチメイさんと春秋社に心より御礼申し上げるとともに、すべてのみなさまの幸運を祈念いたします。タシデレ!
この作品は2016年に発表されるやチベットで大評判になったそうですが、人気に火がついたのはコロナ禍で厳しいロックダウンが行われた時期だったそうです。口コミで評判になり、海賊版が出回っただけでなく、電子版が勝手に作られて広まり、さらには複数の朗読音源がインターネットを通じて流布し、チベット語を読めない人のもとにまで物語が届いたと言います。著者はこうしたことを面白そうに嬉しそうに教えてくれました。物語では悲痛な運命に翻弄される女性たちの姿が描かれるのですが、その彼女たちが性暴力を受けたのも、セックスワークのような他人から蔑視される仕事をする羽目になったのも、今生きている自分のせいというよりは、自分の前世の悪い業(カルマ)のせいだと割り切っているのが印象的です。仏教の輪廻転生にもとづくこの考え方は、どれだけ辛くても生きていかなければならない彼女たちを支えているのかもしれません。ぜひみなさんも読んで考えてみてください。 アジア文芸ライブラリーは「文学を通じてアジアのこれからを考える」というコンセプトのもとに続々と文学作品が紹介されていく予定です。読者対象は高校生から。アジアの隣人たちのことを深く知るためにみなさんにお薦めしたいシリーズです。