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チベットの憑きもの「テウラン」についての覚書

別所裕介

コミュニティの全景
テウランが好んで棲息場所としてきた密集型農業コミュニティの全景(撮影:別所裕介)

はじめに──アムドのテウラン話

「テウラン (the'u rang)」とは、チベットの民間に伝わる、人間をたぶらかす不可視の精霊の一種で、仏教文献には「独脚鬼」、「空を飛ぶ餓鬼」などと記されており、その姿は一本脚の奇怪な格好をした鬼、として規定されている (『蔵漢大辞典』1187頁)。またその由来も、六道輪廻の餓鬼道をさまよう魔物であるとか、古代吐蕃王朝の時代 (七世紀) に征服された異民族が祀っていた神である、などといった抽象的・古代的起源が語られている。

他方、筆者はこれまで、チベット高原の東縁部に位置するアムドの農業集落 (化隆、循化、天祝など) で調査を行う中で、村落社会の日常生活の中で語られるテウランの実像は、文献上で知られるようなものとは異なり、むしろ日本の民俗研究で古くから知られる「キツネつき」のような、動物霊 (憑きもの) に近いニュアンスがあると感じてきた。

一般に、従来の学説における「憑きもの」とは、日本の民俗やアフリカの妖術信仰を援用する形で示される、伝統的な共同体内における人間関係の負の側面を体現したものである。

その特徴として、以下の三点が析出できる。

突き詰めると、これらの研究で示唆されているのは、村落の成員間で発生する漠然とした損失感情を、目に見えない超越的な力(憑きもの)の働きへと還元することで把握しようとする、伝統的な村落社会に特有の解釈枠組みである (小松和彦『憑霊信仰論』101頁)。

「憑きもの」をめぐるこの種の議論に即してアムドの村落社会に目を転じてみると、やはり彼らの人間関係の中に、「テウラン飼い」と名指しされる特定の家筋があり、それに対して差別的な扱いが行われているのを見ることができる。以下では、筆者がホワリ (dpa' ris) (天祝チベット族自治県) で2005年に行ったフィールド調査の記録から、上述の要点に関わる部分を突き合わせることで、チベット社会における憑きものとしての「テウラン」の特質を導き出してみたい。

土地神の山
テウランが好んで棲息場所としてきた密集型農業コミュニティ(背後に聳えるのは土地神の山)(撮影:別所裕介)

テウランをめぐる語り──フィールドノートから

4月11日

AT氏の奥方 (48歳) はテウランという単語を口にするのも怖がっていた。名を呼ぶとそこへ来てしまうからだという。解放前、村では、C姓の家でテウランが飼われていたという。村のみんながそれを知っていて、その家に行くときには入口でその家のめぼしい品物を指差してわざと「わぁー! これはいいなぁー! すばらしいなぁー! すごく欲しいなぁー!」と真剣に大声で叫ぶ。そうするとテウランはそっちをガードすることに気をとられて、客が食事などを通じて家から富を奪っていくことに対してはガードが薄くなる。そういう予防措置を取らずにこういう家で大食したりすると、怒ったテウランが自分のおしっこを食事に混入させるので、客は帰宅してから腹部の膨満感や腹痛に悩まされることになるという。

4月15日

LT家の当主 (68歳) もまたテウランという単語を口にすることをタブーと見なしていた。以前、僧院のラマが法話の場で「名を呼ばないほうがいい、危険だから」と語るのを聞いたことがあるという。最初このテウランがどのようにやってくるかというと、家の中がきれいに片付いていて、一定の財を持っている人の所にある日どこからともなく現れるという。一旦棲み付くと、飼ってくれる主人のために密かに働きをなし、家を富み栄えさせる。しかし、どのテウランも最終的には家を破滅させる。家が裕福になるとともに、テウランの方でもどんどん欲がついて要求がエスカレートしてきて、牛のような大型家畜の生贄や、果ては人身御供を求めるようになる。そして主人がこれに応えることができないと、怒って逆に主人家の人間を殺したり、家畜を死なせたりして、家の没落を招く。テウランに類似するがその能力ではるかにこれを上回るものとして「ギャルポ (rgyal po)」や「ザ・チェンポ (gza' chen po)」と呼ばれる神霊もいる。特に「ギャルポ」はこの種の霊のうち最強クラスに位置づけられ、これを飼う事で全く働かなくても食べていける家というのもある。これらは力が強い分、主人への要求も並外れていて、破局を迎えた際の被害は非常に深刻なものになると考えられている。

4月17日

ST家の当主 (55歳) によると、テウランを飼っているのは主にホル (モンゴル系のトゥー族) の人々で、その姿形は山猫に似ているという。通常は人の眼には見えないが、酒を飲ませると姿が見えるようになる。隣県の互助ではたくさんの家で飼われていると言う。テウランを受け入れた主人は酒や穀物でこれを養う。家の隅の、テウランを祀る特定の祭壇に、お椀に取り分けた供物を置いておくといつのまにか無くなっている。供える際に家の主人は「あーぁ、家の小麦もこれで終わりだ...」とか「肉がもうすぐなくなるなぁ...」という風に、ぶつぶつグチを言うようにしてテウランに家の窮状を伝える。そうするとテウランは夜の間にあちこちの家から少しずつ小麦を取ってきて麦箱に足しておいたり、肉の束を屋根の煙出し穴から部屋に放り込んだりして主人に奉仕する。一方取られたほうは、麦箱の中に一年分蓄えたはずの小麦が半年で底をついたりする奇妙な経験を味わう。

不平等の説明原理としてのテウラン

以上の語りから見いだせるアムドのテウラン現象にまつわる特質を、前出の三つの要点を意識しながら下のように整理してみた。

肉塊
伝統的な富のイメージ、肉室の中に蓄えられた肉塊(撮影:別所裕介)

先に挙げた民俗学の例に倣って述べるならば、村人の間にテウラン語りを発動させるのは、元来同質的な生業に依拠して構成された村落社会であるにも関わらず、特定の世帯だけは羽振りが良く、その他の家はじり貧にあえいでいる、というような漠然とした不公平感である。それを具体的に実感させるのは、一年分蓄えたはずの麦箱が思ったよりも早く底をついてしまう、といったレベルの、個々の生活場面において感じられる奇妙な損失感覚である。この感覚は、村の中の誰かに自分の富が奪われた、という形でなくては説明がつかない性質のものであり、その標的となった家に「テウラン飼い」というレッテル張りが行われる。

他方で、この種のテウラン語りには、「はじまり」(テウランの受け入れ) から、一定の富の蓄積という「中間段階」を経て、「おわり」(肥大化した欲望による自滅)へと至るひとつの一貫性を持ったストーリーが認知されており、「驕れるもの久しからず」といった、村落社会の力関係をなるべく平均化しようとする志向性が内包されている。それは同時に、村落内の一般世帯にとっては、自分の家が「テウラン飼い」と名指しされないように、自ら抑制的な行動を取るための、反面教師的な教訓の意味合いをも帯びてくるのである。

また、アムドのテウラン語りに関してもう一点指摘しておくべきことは、異民族との関係である。歴史的に他民族 (漢族、回教徒、及びモンゴル系諸族) との接触の最前線となってきた化隆、循化、天祝などの地方では、非チベット系の世帯がテウラン飼いとして名指しされることは珍しくない。アムド辺縁部では一般に、黄河上流域に開けた河岸段丘を開墾し、麦や豆を耕作しつつ家畜を季節放牧する、半農半牧の生業共同体が平均的な発達を遂げてきたが、清代末期にこの地方に流入した異民族は人口増加率と生産力の点で先住者を圧倒し、かつ商業にも長けていたことから、彼らの生業基盤を徐々に切り崩し、経済的優位を確立してきた。これらの地域で先住者がテウラン飼いを名指しすることは、異種混交型の社会に特有な生活経験の中から生まれてきたものであり、単に後発の新参者に対するあてこすりという側面以外に、村落に自生するものとしてのアイデンティティ (過度な物欲を自制し、村の調和を重んじる平等主義を核とした集団意識) を保持するため、自他の間に線を引く社会的な機能 (実際に憑きもの筋の家との通婚は制限される) も持たされているのである。

まとめ──自己増殖する「富」とテウランの居場所

以上のようなテウラン話が本当にリアルなものとして語られたのは、中国への併合を経て1950年代末までの、食糧事情が極度に苦しかった時代をピークとしている。その後、一切の迷信的行為を排斥した文化大革命を挟んで改革開放の時代が訪れると、テウランが好んで棲み家としてきた、自律的な生業活動に支えられた半閉鎖的な村落社会と、そこでの人間関係は大きく変容していく。

今日、80年代以降に進展した市場主義経済の浸透と共に、農牧業生産によって自給的に得られる富の相対的な価値は大きく低下し、出稼ぎや冬虫夏草取引などの手段で外部から獲得される富が村落経済の中心を占めるに至っている。アムド農村部の人々が一攫千金を求めて一年の多くの期間を村落の外で過ごし、ロサル (新年) などの機会に戻ってきては家を改築したり、自家用車で街の家と村とを行き来したりする中で、村落内部で完結した地道な生業活動はもはや憐みの情さえ覚えさせるような、狭く、小さな営みとして映る。子供と老人以外、歩く人もまばらになった現代の村落社会では、農作業は言うまでもなく、冠婚葬祭や祭りなど、伝統的な人間関係に支えられたローカルな習俗の維持も難しくなっている。当然ながらそれと共に、テウランが棲みつくために必要な、細かな人間関係の機微の裏側にある薄暗い空間も、「美麗郷村」政策に代表される、真新しい白塗りの家々が立ち並ぶ画一化された居住環境の中でいよいよ切り詰められていっている。

こうして、平均的農耕社会の中で限定的な富がやりとりされる、ある程度自律した村落経済の空間は、投機的なリスクを伴う市場経済というより大規模な「マネー」の世界に包摂されることで、極度に矮小化されたつつましやかなものへと変化した。この全体的な変化のプロセスを、村落に根を下ろす年寄りたちの目から見るならば、巨大な市場経済を司る「マネー」、すなわちどこまでも無限に自己増殖する富の力が、かつての豊かな人間関係に支えられていた村の限定的な富を塗りつぶしていく過程として映るだろう。その魔法のようなマネーの力は、村にとってもっとも根幹的な富の源泉である人間すら、根こそぎ奪い去っていく。では、その荒ぶるマネーの「飼い主」はいったい誰なのか。それは、村の中はおろか、村を出て行った人々にすら知られないままである。

焼香台と魔除けの仏画
村落コミュニティの住居中庭にある焼香台と魔除けの仏画

別所裕介Bessho Yusuke

駒澤大学准教授
専門は宗教人類学、現代チベット研究。チベット高原の自然環境を背景とした「動物」と「ヒト」の関係や、そこに入り込む仏教的な考え方、ならびにその近代的変容に興味を抱いている。

本エッセイについて

この記事は、SERNYA vol.6 (2019年3月刊行) 掲載の同タイトルのテキストを執筆者の許可を得て転載したものです。
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