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お化け

ラシャムジャ

三浦順子 訳

人というのはなんと臆病な生き物なのだろう。僕がそんなことをいうのもわけがある。

地球上にいる生き物にはそれぞれ怖いもの、恐ろしいものがあるけれども、人はそれにもまして怖がりで、目に見えないものを恐れる。それというのも、人の心にお化けや幽霊に対して身の毛もよだつほどの恐怖を感じとることのできる心の領域があるからだ。他の生物ならありえないことだが、人は漆黒の闇の中や、人影のない荒野、墓場、真っ暗な建物の中などにたった一人で足を踏み入れる勇気などとてもなく、もしそんな羽目に陥ったら、姿かたちのある生き物から襲われるんではないかと怯える代わりに、目に見えないお化けに襲われることを恐れて躊躇する。そもそも夜行性動物の類ならお化けなぞ怖がるはずはなく、自分より力の強い獣の餌食となることを心配するのがせいぜいのところだろう。

お化けは、「形もない、音もない、香りもない、味もない、触ることもできない」、いわゆる「無色声香味触」(『般若心経』)だが、にもかかわらず多くの人々がお化けの存在を信じている。なら、ここからはお化け実在説の裏付けとなるような経典探しはさておいて、別の観点からこれを分析して見ることにしよう。このように姿かたちもなければ音もない、香りもない、味もない、触ることもできないものが実在するとは、なんと不思議なことか。それより不思議なのが、実在しないものを、なぜここまで人が怖れるかということだ。夜にひとりぼっちで、がらんとした大きな家で眠ったり、闇に包まれた人影のない荒野を歩いていると、自然にお化けがいるような気がしてくる。

ここでいうお化けとは、がらんとした家の暗がりに身を潜めていたり、闇夜の荒野で不気味な動きをみせたりするようなものだ。ふと、家のどこぞの片隅から足音が聞こえたり、なにかが動き回る音が聞こえるような気がする。あるいは人っ子ひとりいない荒野を歩いていると、後ろから何者かにつけられているような気がする。その瞬間、恐怖のあまり全身の血が凍りつく。お化けや幽霊がそばにやって来たと思うだけで、怖気づいて全身総毛だつ思い、言葉では言いあらわせない恐怖と戦慄に体がすくむ。まったくなんと肝っ玉の小さい人間になりさがってしまったのだろう。だが、そんな風にすくみあがったまま、いくら待ってもそのお化けとやらが現実に襲ってくることなどはないのである。喉を締め付けられて息ができなくなったり、心に取り憑いて危害を加えることなどほとんどありはしない。日常この類の話はよく耳にはするけれども、目の当たりにした人となるとごくわずかだ。

目に見えないからといって存在しないわけではないとお化けの存在を固く信じている人もいれば、そんなものはいるはずもないと断言する人もいる。いずれにせよ、人類が誕生したその日から、お化け存在説と不在説の二つの説が生まれ、今に至るまで結論に至ってないらしい。

年寄りたちに尋ねると、それぞれが見聞きしたと称することがらを語り聞かせてくれる。曰く、何々家の某が、その年、霊に取り憑かれて、異言を口走り始めるのを目の当たりにした。なんでも取り憑いた霊は、前年に亡くなった村の老人で、それが悪霊に生まれ変わったのだ。取り憑いた悪霊は、生きている時とまったく同じような声でしゃべっていた。そこで誰かが疑念をはさむようなことをいうと、霊やお化けの類はそもそもわしらの目では、見ることはできない。もし見たいなら四つ目犬の目くそを自分の目に擦り付けて初めてその姿が見えるようになる。時々四つ目の番犬が、理由もないのに吠えていることがあるが、それは霊やらお化けやらを目にしているせいなのだなどと答えるのである。こういった話は年寄りが得意とするところだが、今時の若者たちにそんな話を聞かせようものなら、馬鹿らしいと一笑に付されるか、あるいは、一枚上手でこんな冗談でもって応じるかもしれない。愛情ってやつとお化けは同じようなもんだよね。誰に尋ねても、確かにあるっていうけど、誰もその実体を見極めたものはいないからね。ははは。

いずれにせよ、お化けというのは、僕たちの心の中に巣くっている恐怖であって、人類が共通して持っている心の感覚なのだろう。恐怖は影のように常に僕たちに付きまとってくる。つまり、恐怖は心の影なのだ。おまけに、この影たるや、いくら捨て去ろうとしても簡単に捨て去れるようなものではない。姿かたちがあるところに常に影があるように、影というものはどうしても切り離すことはできない。

このように恐怖の対象となっているお化けや幽霊の正体がどのようなものかというと、時代や民族や地域が異なれば、それぞれが異なるイメージを持つのだろう。自分の環境にあったお化けなり幽霊なりのイメージを想像で作り出しておいて、逆にそれに恐れをなしているのである。西洋と東洋では宗教も違えば、文化も違う。となると、それぞれが妄想するお化けなり幽霊なりのイメージも当然違うわけである。東洋人は西洋人が思い描くお化けや幽霊をそれほど怖がりはしないし、西洋人は東洋人の思い描くお化けや幽霊をさほど怖がったりしない。

僕たち東洋人のお化け話や、映画で描かれるところの伝統的な幽霊とはこんな感じだ。夜も更けた村の公道や、町の民家の中庭に面した回廊などに、長い白衣をまとい、長い黒髪で青白い顔を覆いかくさんばかりの女が現れ、両足をわずかばかり宙に浮かせて滑るように動いていく。それも見えたかと思うと、次の瞬間には消え失せている。時に道の曲がり角から姿を現し、時に、家の回廊の片隅に影のようにすっと消え失せる。東洋の、特に漢人が怖がるタイプのお化けは、この手の女の幽霊であるようだ。こうした女の幽霊は、しばしば静まり返った真夜中に、恐ろしいうめき声を上げるという。声そのものはかぼそいのだが、突如、耳に飛び込んでくると全身鳥肌がたつ。この声こそ、東洋人が思い描くところのお化けの声なのである。この声は日常生活で僕らが耳にするようなものとはまったく異なる。夜にこうした女の幽霊に出くわすと、なにやら意味のない言葉や声を発している。その声たるや、喉からしぼりだしたような、かぼそい、だが途切れることない声か、野太く、不明瞭で、喉の奥につまったような声のいずれかである。生死の狭間から発せられたような声は時にはっきりと、時にくぐもって聞こえ、かぼそいながら、怨嗟と怒りに満ちている。その声の刺々しいこと、悪意がしみ込んでいる。

西洋人がイメージする怪物はそれとは逆で、顔は蒼白で血の気なく、口からむき出した白い牙を人や動物の首に突き立てて血を啜っていく。あるいは人の姿でありながら、衣服はぼろぼろ、目耳鼻などに酷い傷を負い、目玉は飛び出さんばかり、口はひん曲がり、腕はちぎれ、足は引きずったままで、傷口からは血がしたたり落ちている。映画などで常々見かけるのはそんな怪物たちだ。きっとそれが西洋人が怖いと思う怪物のイメージなのだろう。

文化的心理と地域的条件もさまざまなのだから、人が恐怖を覚えるお化けや幽霊もさまざまな形をとるのだろう。東洋人がイメージするお化けや幽霊が はかな く、 おぼ ろで、幻のようであるのに対し、西洋人のイメージするお化けは、いかにも恐ろしげで、すさまじい風貌である。そもそも東洋文化の要に仏教の教えがあり、輪廻転生や中有 バルド で彷徨う死者の意識という考え方があるので、そこに基づいてイメージを膨らませているのだ。逆に西洋は天国と地獄なるものを作り出し、いかに罪人に激烈な懲罰を下すか、そこに想像力を膨らませてきたのである。いずれにせよ、怖れを感じる心理は東洋と西洋、なんら変わりはない。

僕たちチベット人は総じて東洋文化に属しており、お化けや幽霊のイメージも、どんなものを怖がるかも、ほとんどの東洋人とさしたる違いはないと思う。でも、高原という環境に生きる僕たちにはそれに相応しいお化け文化がある。お化けにまつわる口承も、物語も実に豊かだ。それだけでなく、ほとんどのチベット人はお化けがいると固く信じている。チベット人ならみなお化けを怖がっているとも言える。高原で馬の頭の骸骨に取り憑く死者の魂、闇の中をひとり歩いている時、連れそっていろいろ話をしてくれるお化け、生きている人の心に取り憑いて、喋らなくてもいいことをぺらぺら喋ったり、奇妙な動きをさせたりするお化け、断崖や峠などで、姿は見せないけど、呼ばわってくるお化け。僕たちは実にさまざまなお化けの姿を想像してきた。

僕たちの言うところのお化けとは、ほとんどの場合、亡くなった人の意識が彷徨っているものを指している。人が亡くなるとその人の意識は、四十九日の間、中有 バルド の中をさすらい、時がきたら新たな身体を得てどこかに生まれ変わる。ただ、この世に何らかの未練を残しているものは、新たな身体を見出すことができず、中有 バルド の中をあてどなく彷徨い続け、しばしば、生きているものに危害を加えるという。

このように仏教の経典を背景に生まれた「古典的なお化け」以外に、「民衆の間から生じたお化け」も新たに生み出されている。例えば、寺を覗きに行って、灯明を灯すつもりで、寺に火をつけてしまうカントというお化けや、他人の家の敷地に入り込んで、その財産をことごとく自分が守っている家に持ってきてしまうテウランというお化けもいる。いずれにせよ、僕たちチベット人はくつろいで暇を持て余している時なら、いつだって怖がらせてもらうことが大好きなのだ。真夜中に好んでお化け話をして、あげくのはてに、語り手も聞き手もそろってトイレに行けなくなることだってある。

お化けや幽霊が本当にいるという議論はさておき、人類だれしも持っている恐怖という心理を少しばかり分析してみると、最終的には僕たちチベット人の一つの諺に余すことなく集約されるのではないか。曰く、「迷信深いものには、お化けがつきまとう」つまるところ、迷信というのは、心の特質であって、そういうとらえかたをするからこそ、お化けがいるという迷信につかまってしまうのだろう。僕はいつだって、恐怖は心の影のようなものだと思っている。お化けは恐怖が姿かたちをとったものであり、それ以外の何物でもない。人は生まれたなら死ななくてはならず、すべてをコントロールしきることはできない。そして恐怖が影のように僕たちに常に付きまとっているのも確かなことだ。僕ら人類が、いかに偉ぶって見せても、ひとりひとりの心には黒い影のように恐怖が付きまとっており、その観点からすると僕らはいつだって小心者なのだ。

そんなわけで、人というのはなんと臆病な生き物なのだろうと嘆息するしかないのである。

2018年10月9日 東京にて

ラシャムジャbo: ལྷ་བྱམས་རྒྱལ།  zh: 拉先加

中国チベット学研究センター宗教研究所研究員、作家
チベット仏教に関する研究を行うかたわら、チベット語で小説を執筆している。邦訳作品に長編小説『雪を待つ』(勉誠出版)、短編小説集『路上の陽光』(書肆侃侃房)がある。

本エッセイについて

SERNYA vol.6 (2019年3月刊行) 掲載の同タイトルのテキストを転載したものです。
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