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チベットの魑魅魍魎 テウラン篇

三浦順子

トルギャ(厄払いで使った呪物の破棄儀礼)を行うカムトゥル・リンポチェ。
1980年代、インド・ダラムサラにて(撮影:三浦順子)

妖精か財神か──現代の語りの中のテウラン

チベットの魑魅魍魎 ちみもうりょう の一種であるテウランについて耳にしたのはずいぶん昔のこと、なんでも目に見えない親指サイズの生き物で、人の周りをうろうろしているのだという。その昔、チベットにラジオが初めてやってきたとき、チベットの人々は人の言葉を発する箱にびっくり、てっきり中にはテウランが潜んでいるに違いないと思ったという話も聞いた。

今回、この記事を書くにあたり、まわりのチベット人たちにテウランとはどういうものかと訊いてみた。

テウラン(当人はテプランと発音)は親指サイズの目に見えない生き物。連れだって大勢で家の中に入ってきて、チベット服(チュバ)にまとわりついてきたりする。テウランをうまく捕まえることができると、なんでも願いを叶えてくれる。人があまり乱暴に歩き回るとテウランを傷つけてしまうので、ゆっくり歩く方がよい。こちらが傷つけるようなことをしなければ、テウランが害をなしてくることはない。また、人の唾はテウランの食べ物となる。(チベット難民二世、子供時代から主にダージリンで過ごす。50代女性)
真夜中の十二時きっかりに両手でうまくテウランを捕まえられると、願いをなんでも叶えてくれるそうだ。(難民二世、30代女性)

こうしてみると、土着の文化から離れて久しい難民チベット人にとってのテウランとは、人に危害を加える恐ろしい魑魅魍魎でもなんでもなく、西洋のおとぎ話に出てくる妖精のような存在になっていることがわかる。

これが難民一世となるともう少し話に具体性が出てくる。

テウランは人の目には見えない悪戯好きの一本足の小人。特に人の家に巣くっているわけではないが、毎日酒を供えてやると、望みを叶えてくれるので、財神めいた存在ともいえる。ただし供えるのをやめるとなにか悪戯をしかけてくる。たとえば小便をひっかけるとか。その昔、自分は喜捨を求めてお寺を回っていたことがあったが、その時、急に頭の毛が、ほんの一か所だけ白髪になったことがあった。それを見た人から、何かテウランの気にさわることをしでかして、小便をひっかけられたに違いないと言われた。髪が一か所だけ白髪になったり、皮膚の一部が白くなったりするのは、テウランに小便をかけられたせいだと言われている。また、チベットでは放牧している家畜の所有者を明示するために、各々の家が家畜の耳に特徴的な切り込みを入れるが、悪戯好きのテウランが一晩のうちに動物の耳に新たな切り込みを入れて、どの家畜がどの家の所有物かわからなくしてしまうこともある。(難民一世、元僧侶、アムド出身だがカムでの生活も長い。40代半ば)

財神的な役割をはたすテウランについて、マチュ (甘粛省) 出身の70代の男性はこんな興味深い話を語ってくれた。

テウラン (当人はティランと発音) には家に富をもたらしてくれる比較的良い性格のテウラン (yod the'u rang) とたちの悪いテウラン (med the'u rang) の二種類がある。いずれも目には見えないが、五、六歳の子供のサイズであろうと言われている。財産を得たいと思うものは、良いほうのテウランを外に捕らえに行く。まずは家畜の糞などを拾い集めるときに用いる柳の小枝を編んでつくった背負い籠を持ってТ字路に行き、籠を伏せてその上に座る。それから羊の踝の骨のおはじきを使って勝負を始めるのだ。傍から見ると、ひとりゲームをしているかのようだが、実は目に見えないテウランと勝負しているのだ。テウランは自分の負けがこんでくると腹を立てて、虚空からぐっと手を出してくる。もちろんその手も見えはしないのだが、その瞬間、手をぐっとつかみ、「お前はよいテウランか? それとも悪いテウランか?」と問いただす。よいテウランだという答えが返ってきたなら、籠の中に押し込んで網でふたをし、そのまま家に連れて帰り、これからはここがおまえの家になったのだと納得させる。悪いテウランだという返事が返ってきたら、そのまま解放してやる。
テウランは気難しく怒りっぽいので、機嫌をそこねないように、一家の食事と同等の、といっても五、六歳ぐらいの子供に与えるような量を出してもてなす。するとテウランはここは自分の家だと納得し、一家が望むものを何であれ、どこからか持ってきてくれるようになる。一家の願いを叶えるたびに、テウランはその印として羊の糞を一粒ずつ上に重ねていく。もしこの羊の糞柱が崩れたなら、テウランの機嫌を損ねた印であり、一家になにかの災厄が降りかかる。だから望みのものが手に入ったら、さっさとテウランを家から追い払ってしまうほうがよい。
テウランを追い払うためには、遠くまで行かなければ手に入れられないようなものを欲しがればよい。夏場だったら「氷が欲しい」、冬場だったら「花が欲しい」というように。するとテウランはそれを探しに行き、なかなか帰って来ることができない。その間にお坊さんなどを呼んでテウランを祓う儀式を執り行えばいいのである。テウランが遠くから帰ってきてみると、まるで自分の家が火事になっているかのように見えて、もう二度とその家には戻ってこなくなる。
文革の時代、みなろくに食べ物を手に入れることができず、誰もがひどく飢えていたが、ある密教行者の家だけは食事に困っている様子がなかった。それもこれもテウランを飼っているせいだとみなが噂をしていた。
いずれにせよ、テウランはお化けや妖怪の類なので、あまり深入りしないほうがいい。

古い世代の記憶をたどる

次に、これよりさらにもっと古い世代、子供のころチベットで過ごしてテウラン (の如きもの) と遭遇した人や親兄弟から具体的にテウラン話を聞いたことのある人々の証言を取り上げてみよう。

ゲシェー・ルンドゥプ・ソバの証言

ダライ・ラマ14世が仏教博士 ゲシェー を得るための最終問答試験の相手役を務めたこともあるゲシェー・ルンドゥプ・ソバ (Geshe Lhundub Sopa) は自伝『白昼夢のように (Like a Waking Dream: The Autobiography of Geshe Lhundub Sopa)』において、子供の時、テウランとおぼしき妖怪と遭遇したエピソードを披露している。

ゲシェー・ルンドゥプ・ソバは1923年、ツァン地方のシャンに生まれた。7、8歳のころ、仲間の子供と共に家畜番をしていたおり、迷子になった家畜を探して墓場 (鳥葬場) を横切る羽目に。と、その時、目に飛び込んできたのが異形の生き物の姿だった。

ふと見ると、二つの岩のあいだに奇怪な姿をしたものがいた。姿かたちは小さくてまるで赤ん坊のようだったが、頭は大きく、ぼさぼさの毛が巨大な目にふりかかっていた。……最初のうちは岩かとも思ったが、近づいてみると確かに生き物で、首をまわしてあたりを見渡していた。その姿の恐ろしいのなんのって……後になってこの話を聞いた人々は、それは墓場に棲む土地神だ、いやテウランじゃないかといろいろ説明づけてくれた。テウランというのは、ドラゴンや雷電と深いつながりのあるハンマーをもった小人だ。ドラゴンが飛翔をするとき……テウランは手に持ったハンマーでドラゴンの頭を叩くと言われている。雷鳴と稲光がはなはだしいと、人々はそこら中にテウランがいるぞと言うのであった。──ゲシェー・ルンドゥプ・ソバ『白昼夢のように』(拙訳)

恐怖に襲われたルンドゥプ・ソバ少年はその場から猛スピードで逃げ出し、誤って棘だらけの茂みに飛び込んでしまう。全身棘に刺さりながらなおも逃げ続け、ようやく家畜番の仲間の少年たちのもとに戻ることができた。しかし仲間の少年たちは異形のものに出くわしたという彼の話を信用せず、わざわざ検分しに行った者もいたが、なんら怪しい影を見かけることはなかった。全身棘だらけになったことと、特に足の裏に刺さった棘がどうしても抜けずに化膿したことから、ルンドゥプ・ソバ少年は重病に陥り、足は曲がって歩くこともできなくなる。そんな少年の様子を見たあるラマがこう忠告する。「農民になるのはあきらめて僧侶にしなさい。そうすればすべてがうまくいくだろう」両親はラマの忠告に従い、少年は立派な僧へと成長するのである。

ジャムヤン・ノルブの亡母の証言

チベット亡命社会の舌鋒鋭い論客であり、小説家でもあるジャムヤン・ノルブは、亡き母からテウランにまつわるとても興味ぶかい話を聞いている。

ジャムヤン・ノルブの祖父ギュルメ・ギャツォ・テートンは軍人で、常に戦いの最前線に身をおいていた人物であり、後に東チベット総督も務めた人物であった。その祖父がまだデルゲの総督でギャンツェから派遣された連隊の指揮官も務めていたときの話である。

最初そのことに気づいたのは私の父ギュルメ・ギャツォ・テートンの依頼をうけてタンカを描くためにその地にやって来ていた絵描きで僧侶のジャムヤンだった。彼にはこの世ならざるものを見る力があった。……ある日、城塞の屋上から外を眺めていた彼は、ギャンツェ軍の駐屯地の外で奇妙な子供たちが遊んでいることに気づいた。その子供たちは毎日現れるわけではないのだけど、見かけるたびに次第に城塞に近づいていき、ついには中に入り込んだ。とたんに兵士たちがみなギャンブル熱にうかされ始めた。特に熱中したのが中国版のドミノの牌九で、ギャンブル熱が嵩じるあまり、借金の返済のために自らのライフルを売ってしまう兵士まで現れる始末。父は綱紀粛正のため違反者全員を罰し、ドミノセットを焼却処分した。もうおわかりだろうけど、この子供たちは実は小鬼のテウランだった。小鬼のテウランはギャンブルが大好きな上、いろんな悪戯を行って害を与える生き物なのよ。──Jamyang Norbu "The Girl and the Golok Chiefs" (拙訳)

後にこの城塞では死亡事故まで起き、サキャ派の有名なラマが悪魔祓いの儀式をとりおこなって、テウランをすべて追い払ったという。このエピソードがいつごろのことなのか正確には記されてはいないが、ギュルメ・ギャツォ・テートンが東チベット総督になったのが1932年なので、1920年代後半あたりであろう。

テウランは人間の欲望とともに

この二つのエピソードに出てくるテウランは、西洋のおとぎ話の妖精もどきのかわいいテウランと比べるとずっと生々しく、実在感がある。特に後者は、ギャンブル熱をひきおこすといわれるテウランの特徴をよく備えている。テウランはギャンブラーの守り神であり、サイコロ博打をする時、テウランに助けを求めると、望む目を出すことができるという。ただしあまりにもテウランの力を借りつづけると、死後、自分自身がテウランに生まれ変わるとされている。

ところで、後の二つのエピソードにでてくるテウランは小人の姿ではあるが、どうみても親指サイズではない。支配民族が奉じる神々の影響力が強まってくると、被支配民族がもともと信仰していた神々の姿形が縮み、悪しき魔物として描かれるようになるのはよくある話だが、いくらなんでもサイズが縮みすぎでないか。チベット語で親指をテポンというが、テウランの別の発音であるテプランとテポンの音が似ているところから、ひょっとしてその連想でサイズも親指化してしまったのかもしれない。

チンピラやくざ的存在?──仏教の中のテウラン

次にチベット仏教界でテウランがどのような位置づけにあるのか見てみることにしよう。

チベット仏教の観点からすると、テウランを含めた魑魅魍魎の類は、すべて八部衆 (lha 'dre sde brgyad) の枠組みのいずこかに位置づけられるという。一般に八部衆とは異教の神々や鬼や動物神が仏教に帰依して護法神となったものをさすが、チベット世界の八部衆は、護法神となって善をなすものと、いまだ仏教の教えに耳をかさず、生き物に危害を与えるものの二種類に分けられるという。後者は時々、人間に悪さをしでかすが、長らく日本に在住しているチベットの高僧の言葉を借りれば「チンピラやくざ」みたいな存在であり、正しい修法を行えば、その害を取り除くことができる。

パトゥル・リンポチェから見たテウラン

19世紀に活躍したニンマ派の高名なラマ、パトゥル・リンポチェ (dpal sprul rin po che, 1808—1887) は、テウランは虚空の中を行く餓鬼の類であると定義し、人に危害を与える存在ではあるが、彼ら自身も苦しみの最中にあるのだから、仏教の修行者なら彼らに対して哀れみの心を持つべきであると説いている。

虚空を行く餓鬼の中には、ツェン、ギャルポ、シンデ、ジュンポ、マモ、テウラン等があり、彼らは常に恐怖と惑いの世界で生きている。常々悪いことばかり考え、他者に危害を加えることに精を出しているため、死んだらすぐに地獄の底に堕ちるしかない。〔死んだ後には〕一週間ごとに甦って、その死の原因となったもの――病であれ、武器であれ、死の要因となった出来事を再度体験してその苦しみを味わう。……彼らは親族や知り合いのもとを訪れたがるが、相手に病を引き起こしたり、狂気を引き起こしたりといった望まぬ苦しみを引き起こす。──パトゥル・リンポチェ『遍く善きラマの教え(kun bzang bla ma'i zhal lung)』(拙訳)

『蔵漢大辞典』においてもテウランは餓鬼の一種と定義づけられており、これがチベット仏教世界における定説であると見なしていいだろう。

テウランを調伏したパドマサンバヴァ

ならばテウランはいつ、チベット仏教世界に組み込まれたのか? 8世紀にチベットにやってきたインドの密教行者パドマサンバヴァはチベット各地をまわり、各地の荒ぶる神々を、魑魅魍魎の類をことごとく調伏して仏法の守り神となるよう誓いを立てさせたと伝えられる。その時から彼らは仏教の神々の走り使いとなり、仏教の行者の手助けをするようになったのだ。

パドマサンバヴァの明妃イェシェー・ツォゲェルが書きしるし、14世紀に埋蔵書発掘者 テルトゥン ウゲン・リンパ (yar rje o rgyan gling pa) が発掘したと伝えられるパドマサンバヴァの伝記『ペマ・カタン (pad+ma bka' thang) 』にはこんな記述がある。

それから〔パドマサンバヴァは〕カム地方のラワ・カンチク (gla ba rkang gcig) に到着し、すべてのテウランを誓約のもとに縛りつけた。──『ペマ・カタン』(拙訳)

カンチクというのは一本足という意味である。テウランの類にしばしば一本足のテウラン (the'u rkang gcig) なるものがあらわれるのは、この地名と何か関連があるのだろうか。

ただし、こうやって土着の荒ぶる神々や魑魅魍魎に仏教の守り神になるように誓いを立てさせたとしても、ひとたび仏教の教えが廃れ、人心が堕落しはじめると、誓約は破られ、人々に害をなすようになってしまう。パドマサンバヴァはいろいろな形で予言を残している。

濁世には、男の心に男の魔が入りこむ。女の心に女の魔が入りこむ。子供の心にテウランが入りこむ。僧の心にタムスィ (=生前に仏教の誓約を破ったために、死後悪霊となり、僧たちに同じように誓いを破るようそそのかす悪霊) が入りこむ。チベット人ひとりひとりの心に魔がひとつずつ入りこむ。──パトゥル・リンポチェ『遍く善きラマの教え』 (拙訳)

ナムカイ・ノルブ・リンポチェの解説する仏教伝来以前のテウラン

さらに時代を遡り、仏教伝来以前のテウランの世界に足を踏み入れてみよう。

通常、チベットの高僧たちはこちらから質問でもしない限り、テウランのことなど語ったりはしない。もともと高僧たちが何よりも語りたいのは仏教のありがたい教え、空性と慈悲についてだから、些末な存在である魑魅魍魎などわざわざ取り上げたりしない。魑魅魍魎を些末なものと見なさず、リアルな存在と感じているなら、それはそれで公の場であえて語ろうとはしないだろう。みだりにその名を口にすると、災いを招き寄せる危険があるからだ。

そんな中、ただひとりテウランやその他の魔物についてしばしば言及したラマがいる。2018年に亡くなったチューギャル・ナムカイ・ノルブ・リンポチェ (Chögyal Namkhai Norbu) である。彼の著書『夢のヨーガと自然光の修行 (Dream Yoga and the Practice of Natural Light)』にはこんな記述がある。

「古代の伝説にはしばしばテウランについて言及がある。テウランとは人に近い存在であるが、まったく人と同じというわけではない。テウランはニェンの部類に属する。ほとんどの土着の神々はニェンの部類だ。……12世紀のゾクチェンの師による記述によると、〔東チベットの〕とある女性がテウランと交わって、子供を複数なした。子供の一人はウベラと名付けられた。成長した子供はただならぬ力をもっていたため、ボン教の僧は、占いと占星術をおこなってその子の正体を見極めようとした。……僧たちはこの子供がテウランの子供である可能性があるので、この地方から追放しなければならない、さもなければ問題がおきるであろうと言って、儀式を行って彼を追放した。──『夢のヨーガと自然光の修行』 (拙訳)

中央チベットに追放された子供は、ちょうど王を求めていたその地のチベット人と遭遇し、ニャティ・ツェンポと名付けられてチベットの最初の王として即位することになる。

ヤルルン王朝の初代の王ニャティ・ツェンポについては、ヤルルンの地のすばらしさに心惹かれて天から降りてきた存在であるとか、インドの王族の血筋だとかの諸説あるのだが、この説に従うとチベットの古代の王たちは人と似てはいるが人ならざる異人テウランの血筋ということになる。

ナムカイ・リンポチェが語ったこのエピソードのもとネタは12世紀の『デウ宗教史 (rgya bod kyi chos 'byung rgyas pa)』で、そこにはその子供の様子がもっとリアルに描かれている。

ポウォ (東チベット) に、モツンという女がいた。彼女は七人のテウランの兄弟を産んだ。……一番下の子供は顔を覆うことができるほど舌が長く、指には水かきがあり、獰猛な表情をしていて、摩訶不思議な力を備えていた。──『デウ宗教史』 (拙訳)

ナムカイ・ノルブ・リンポチェ自身が語るところによると、彼の母方の遠い先祖も、家畜追いの娘が土地神と夢の中で交わって生まれた子だったそうで、強靭な力をもったその子は侵入したモンゴル兵をなぎ倒し、その功績でデルゲの族長に取りたてられたという。リンポチェはインタビューに答えて「こうした話を信じるかって? もちろんだとも。その昔、チベットではこの種の異類婚姻はよく起きていたものだ」と答えている。ナムカイ・ノルブ・リンポチェ自身、ヴィジョンのなかで魑魅魍魎の類を目にしたり、感知したりすることがよくあったらしい。

さらに掘り下げると、仏教という枠組みが課せられる前の古代チベット民族の世界観の断片もあらわれてくる。たとえば、ルネ・ド・ネベスキー=ヴォイコヴィッツ (René de Nebesky-Wojkowitz) は『チベットの神託と悪魔たち (Oracles and Demons of Tibet) でテウランについて

テウランはもともとは、太った金色の宇宙的な亀から生み出された。悪しき本性をもっていて、嵐や、雹や、争いごとをひきおこし、子供を病気にする。──『チベットの神託と悪魔たち』 (拙訳)

などと述べている。

おわりに

以上、チベット世界に現れたテウランの姿を現在から神話時代に至るまで遡ってざっと俯瞰してみた。親指サイズの妖精から、ギャンブルの守護神、家に富をもたらす財神、パドマサンバヴァに調伏された荒ぶる土着の神、チベット初代の王の血筋をもたらした異人と、テウランの姿は実に多彩だ。それはチベットの歴史がいくつもの異なる文化の層を積み重ねてできあがったことの証でもある。

最後にチベット人がテウランをどのような姿にイメージしているのか記してこの記事を締めくくることにしよう。四部医典のタンカ集はチベットの魑魅魍魎の図像の宝庫なのだが、鬼神の影響を受けた人の尿の診断の項目に、ツェンやニェンなどに交じってテウランの姿も鮮明に描かれていた。手には赤い柄の斧、赤い衣をまとい山羊に乗っている人の姿である。横から描かれているので一本足かどうかはわからない。ジャムゴン・コントゥル ('jam mgon kon sprul, 1813—1899) の記述「テウランの男女は足が一本である。子供の姿をとるときには、山羊の皮をかぶり、山羊に乗っている (拙訳) 」とあわせて見るとなかなか興味ぶかいものがある。

テウラン
四部医典のタンカ集に見られるテウランの図
出典:Tibetan Medical Paintings: Illustrations to the "Blue Beryl" Treatise of Sangye Gyamtso (1653—1705) (Yuri Parfionovitch and Gyurme Dorie, eds., Serindia Publications, 1992)

ネットで検索するとHimalayan Art Resourcesというサイトにヘタウマのイラスト風の青いテウラン像が上がっているのを見ることができる。一本足に肌の色は青、ざんばら髪に赤い帽子、赤い腰巻をまとった姿が描かれている。恐ろしげというより、一風変った小鬼といった感じである。これをもってチベット人すべてがイメージするテウランとは言えないだろうが、ご興味のある方はこのサイトでご覧いただきたい。

マチュに伝わるテウランの話については、全面的にソナム・ツェリン氏の協力を仰ぎました。ここに記して感謝申し上げます。

参考文献

英語

チベット語

本エッセイについて

この記事は、SERNYA vol.6 (2019年3月刊行) 掲載の同タイトルのテキストに加筆修正したものです。
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